なぜ上野に西郷さんの銅像?しかもラフな姿で愛犬と散歩!?/上野恩賜公園

「西郷さんといえば上野、上野といえば西郷さん!」とイメージされる方も少なくないと思いますが、なぜ西郷隆盛の銅像が上野恩賜公園にあるのかご存知でしょうか。

 

その理由は、幕末に戊辰戦争の一つとして起こった「上野戦争」にあります。

戊辰戦争とは、15代将軍の徳川慶喜が率いる旧幕府軍と、薩摩、長州、土佐藩を中心とした新政府軍の戦いの総称。鳥羽・伏見の戦いに始まる同戦争において、旧幕府軍は敗れ、勢いに乗った新政府軍は江戸城に総攻撃を仕掛けようとしていました。


そんな中、1868年3月、旧幕府陸軍総裁の勝海舟と新政府軍総督府参謀だった西郷さんが会談し、江戸城の無血開城を取り決めます。

しかしながら、西郷さんと勝海舟の会見で一件落着とはいかず、幕府の降伏と江戸城無血開城に納得しない旧幕府の武士たちは「彰義隊」を結成。上野・寛永寺に立てこもり、上野戦争が勃発しました。

上野戦争は、圧倒的な軍事力の差で新政府軍が勝利。彰義隊は、わずか一日で惨敗したのですが、上野恩賜公園の西郷さんの銅像近くには、彰義隊の戦死者を悼む碑がありました。

人形町や西郷山公園あった西郷さんの屋敷跡を訪ねる

明治維新後、西郷さんは郷里・鹿児島に戻っていましたが、明治4(1871)年、新政府に請われて上京します。そのころ住んでいた屋敷跡の案内板が、日本橋人形町にありました。

明治6(1873)年、西郷さんは征韓論をめぐる対立に敗れ、帰郷します。実弟の西郷従道は兄の再起を願い、土地を購入。その土地は、現在、西郷山公園(東京都目黒区青葉台)として親しまれています。


帰郷後、西郷さんは鹿児島で士族子弟のための私学校を結成し、悠々自適の生活を送っていましたが、 明治10(1877)年、ついに西南戦争が勃発。その年の9月24日、天皇や懲役に敵対する朝敵として自ら命を絶ちました。


亡くなった当時、西郷さんは朝敵だったのですが、明治22(1889)年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で汚名が解かれました。その後、銅像建立の話が持ち上がり、死後21年が経った1898年、上野恩賜公園敷地内に銅像が建てられたそうです。

時代とともに評価は変遷するものですが、銅像脇にある「敬天愛人」の文字と銅像の由来を読むと、時代を超えて敬愛され続ける西郷さんの姿が浮かび上がってくるようです。


ところで、薩摩犬の愛犬「ツン」を連れた和装の着流し姿の西郷さんは、温かい人柄を感じさせ、親しみが持てるものですが、銅像が公開された時、妻の糸さんは「(主人は)こんなお人じゃなかった・・・」と驚いたと伝えられています。風貌というより、浴衣のような軽装で人前に出るような人物ではなかったということのようですが、なぜこのような姿なのでしょうか?

その理由は、銅像制作の当時、大赦で名誉回復されたとはいえ、一度は明治政府に背いた逆賊として、威厳のある姿の西郷像の制作に反発する声が上がったことにあるようです。

 

しかし、普段着で犬を連れている上野の西郷さんは、そのラフな姿ゆえにより愛される存在になっているような気がします。いまなお愛され続ける西郷さん。東京にもあるゆかりの地をみなさんもぜひ訪れてみてください!

おまけ

▲JR田町駅の改札外コンコース三田口(西口)にあるパブリックアート

▲JR田町駅の改札外コンコース三田口(西口)にあるパブリックアート

なお、JR田町駅の改札外コンコース三田口(西口)壁面には、「西郷南洲・勝海舟会見の図」を描いたパブリックアートが展示されています。 駅近くには「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の碑もあります(現在は工事中のため、別の場所に保管されているようでした)。


西郷さんゆかりの地を巡る散策を楽しむ際には、ぜひこちらにも足を運んでみてくださいね。

上野恩賜公園(上野公園)
  • 所在地

    東京都台東区 上野公園・池之端三丁目

  • 最寄駅

    上野

  • 電話番号

    03-3828-5644

西郷山公園
  • 所在地

    東京都目黒区青葉台 2-10-28

  • 最寄駅

    中目黒

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※本記事は2022年09月23日時点の情報です。掲載情報は現在と異なる場合がありますので、事前にご確認ください。
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