最近、豆を投げていない。投げようにも、鬼がいないのである。一人では物理的にできないせいで、やる前から諦めてしまう者は少なくない。節分の豆まきもその一つではないだろうか。豆を投げるからには、鬼がいてほしい。鬼のお面をかぶった鬼役の誰かに向けて、豆を投げつけたいのだ。そう思って、私はしばらく豆まきをしてこなかった。けれど、本当に一人ではできないのだろうか。やってみる価値はある。
投げ役・私、鬼役・私、と一人ですべてを担当する「一人豆まき」をしに、公園へやってきた。普通、豆まきは公園ではなく自宅の玄関や庭・ベランダ等で「鬼を家の外に、福を家の中に」と行うものだが、いろいろと事情があるのだ。公園で豆をまくことで、地球全体の鬼を外に、福を内に、といった地球規模のグローバルな豆まきだと思っていただきたい。
まずは、投げるための豆、鬼のお面、こん棒、鬼のかつらを準備。
より鬼に近づくために、鬼が履いていそうなパンツも用意した。「勝負パンツ」と書かれている。
赤コーナー、投げ役の人間・私。
青コーナー、投げられ役の鬼・私。
準備が整ったので、さっそく豆まきを執り行う。まず、人間の格好で豆を手に持ち、「鬼は外ー、福は内ー」と投げる。投げながら、この公園において「鬼は外」の“外”ってどこなんだろう、と頭によぎるが、先に述べた通り、これは地球規模での豆まき。むしろ、家から鬼を外に追いやる程度でいいのか、と問いかけたい。各々が、自宅に入ってくる鬼は外に追い出せばいい、自分の家だけに福が来ればいい、自分たちさえよければいい、といった考え方で豆まきをするから、この世界は平和にならないのである。
そして、急いで鬼のお面とかつらを装着し、投げられた風に振る舞ってみる。
……。何か物足りない。やはり、一人で誰もいない方へ向かって豆を投げても、投げてやったという感覚に乏しいのだ。どうしても、鬼に向かって投げたい。どうしよう。
そもそも、豆まきの“鬼”とは、何なのだろうか。由来を調べると、昔、京都の鞍馬に鬼が現れた際、退治するのに豆を使ったことに端を発するらしい。そこから、邪気を追い払うために「鬼は外」と豆を投げるようになったのだという。つまり、鬼が存在しない現代において、鬼とは“邪気”を表す概念である。邪気、それは必ずしも外にいるナニカなのだろうか。自分自身が邪気を溜め込んでいることも、あり得るのではなかろうか。だから、豆まきは「人間が鬼に向かって投げて邪気を払う」という構図じゃなくても、例えば「鬼の格好をした自分が自分に向かって豆を投げる」でもいいはず。自分の中の邪気を、自分で払うのである。
そう考えた結果、「一人豆まき」の最適解は、「鬼のお面とかつらとパンツを身につけて、豆を持って、自分に向かって豆を投げる」となった。
投げる、ぶつかる、投げる、ぶつかる、ずっと私のターン。ずっと鬼のターン。かくして、自分との対話をするかのごとく、豆を投げて投げられて、「一人豆まき」を終えた。鬼のお面に豆がバラバラとぶつかる音を聞きながら、あらゆる邪念が浄化されたような気がしたのだった。
一人豆まきを楽しむ3ヵ条
その1 一人では物理的にできないことも、なせばなる
その2 鬼の格好をして自分に向かって豆を投げ、自分の中の邪気を払おう
その3 公園で投げて散らばった豆は帰る前に拾って片づけよう
※この記事の写真はすべて三脚とセルフタイマーで一人で撮影しています
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