【野火止用水の歴史】
徳川家康が江戸城へ入府後50年程たち、江戸の人口増による上水の不足がおこり、1653年(承応2)幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許す。
1654年(承応3)に完成。
松平伊豆守信綱は、その功績により関東ローム層の乾燥した台地のため、生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許され、1655年(承応4)に野火止用水を開削する。費用は三千両を要したといわれている。
現在の東京都小平市から掘りおこし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24キロメートルにも及ぶ用水路である。
用水の分水割合は、玉川上水7割、野火止用水3割といわれ、主として飲料水や生活用水に使われていた。
その後、野火止用水は飲料水だけでなく、のちに田用水としても利用されるようになったが、豊かな水を得た人々は、この用水に深く感謝し、後世「伊豆殿堀」と唱えるようになった。
開削以来、野火止の台地と人々の心を、その清らかな流れで野火止用水は潤してきた。
1944年(昭和19)3月31日には、埼玉県の史跡に指定された。
ところが、1949年(昭和24)頃から生活様式が変わり出し、排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題となる。
特に1963年(昭和38)頃から宅地化が進行し、用水への排水がさかんにおこなわれるようになった。
それに追い討ちをかけるように、1964年(昭和39)に関東地方が、干ばつに見舞われ、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止された。
しかし、文化的業績のかけがえのない野火止用水をこのまま滅ぼしてはいけないと、埼玉県と新座市は「野火止用水復原対策基本計画」を策定し、用水路のしゅんせつや、氾濫防止のための流末処理対策を実施した。
また、文化財としての保存対策や整備の方法について協議を重ね、新たに「清流対策事業」を実施し、1987年(昭和62)に野火止用水に清流を復活させた。
整備事業完了後、史跡を後世によりよい形で継承し、有効に活用するため、1995年(平成7)「野火止用水管理活用計画」を策定し、「野火止用水のあるまちづくり」という基本的な考え方のもと、史跡野火止用水の保全・活用を推進している。
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